わさびの歴史

わさびは、日本特有の香辛野菜として食生活に深く関わってきました。その歴史は古く、飛鳥京遺跡で「委佐俾(わさび)」と書かれた木簡が出土したことからも、685年よりも以前から食されていたことが伺われます。現在のように、寿司や蕎麦、刺身の薬味として使われるようになるまでの歴史を簡単にご紹介します。

 

飛鳥時代
(527-710)
奈良県明日香村の苑地(えんち)遺構から出土した木簡を調べていた奈良県立橿原考古学研究所は、「出土された木簡の長さは8?30cmほどで、わさびや薬草とみられる植物名や、庭園を管理する役所名などがかかれていた」と発表。庭園で野菜や薬草が栽培されていた可能性を示す発見で、単なる遊覧の場でなく、薬草園の性格を持っていた可能性が高まりました。 右記は「委佐俾三升(わさびさんしょう)」とかかれており、わさびと記されたわが国最古の木簡で、上下に切れ込みがあり、わさびを保管した容器にくくりつけたラベルとみられます。
平安時代
(794-1192)
日本最古の薬草事典の『本草和名(ほんぞうわみょう)』に、「山葵」の記載があります。このことからも、わさびが薬草として用いられてきたことをうかがい知ることができます。 また、日本最古の律令集の『延喜式』の中にはわさびが、「山薑」と記載され、京の都近くの若狭、越前、丹後、但馬、因幡の国々から、税として収められていたことがわかっています。 『和名類聚抄(わみょうるいじょうしょう)』にも、「山葵」の記載があります。
鎌倉時代
(1192-1333)
わさびは寒汁(ひやじる)として食されていたとみられます。鎌倉時代の料理書である『厨事類記(ちゅうじるいき) 』の中でわさびのことが書かれています。 寒汁(ひやじる、冷たい汁)を供える時の記述に「汁の実に、山薑(わさび)、夏蓼(なつたで)、板目塩(いためしお)、薯芋(やまのいも)のとろろ、橘葉(たちばなのは)などは同じ盤(さら)に盛りてこれを加え置く」とあり、「山薑」の文字が記載されています。
室町時代
(1333-1573)
寺子屋の教科書とされる『庭訓往来』に、「御時の汁には、・・・山葵、冷汁(ひやしる)等也、・・・」と記載され、わさびが寒汁の実として、法会の食事として食されていたようです。 四条家の料理書『四条流庖丁書』に、「鯉は山葵酢。」の記載があります。
江戸時代
(1952)
慶長年間(1596-1615)に、安倍川上流有東木(うとうぎ:現在の静岡市)は望月六郎右衛門を長として開かれ、わさび栽培歴史の始まりと言い伝えられています。 江戸時代に刺身、なます、そば切りにわさびを添えて食べていました。文政、天保時代に握り寿司が流行しこれにわさびをつけたことで急速に広まりました。
明治時代
(1868-1912)
松村任三が、本わさびの学名を Wasabia japonica と命名しました。
大正時代
(1912-1926)
小長谷与七が、粉わさびを考案しました。
昭和時代
(1926-1989)
粉わさびの製造が本格化。1971年には、金印わさびが「金印ねりわさび」開発、さらに1973年、生タイプ「生おろしわさび」を開発し、これを機に加工わさびが普及していきました。

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